大阪市東住吉区オンライン対応の初心者、小学生専門の囲碁教室

たかつ囲碁教室

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東住吉区杭全1-17-9
まんぷくビル3-B
受付時間9:00〜21:00

たかつ囲碁教室の代表兼指導者からご挨拶

たかつ囲碁教室の理念

”囲碁界の発展と囲碁人口の増加”

知育教育としての立場を確立し、全国の囲碁ファンのニーズを満たし、全国の囲碁サロンの発展を目指しています

囲碁に興味を持たれた方が、「囲碁を覚えたい。実践してみたい。」となったときに、囲碁サロンに行ってみようと思われる方も多くいらっしゃいます。

ですが、どんなサロンがご自分に合っているかわからない。

囲碁サロンまで行ってみたが、まったくの初心者には敷居が高いように感じられたので断念してしまった。

といった内容の相談や質問を多く受けます。

そんなとき、囲碁に少しでも興味を持たれた初心者の方が、学び方を迷うことなく習うことができる、本当に初心者のためだけの教室を設けたいと考えていました。

当たかつ囲碁教室は、大阪市東住吉区の東部市場前駅の駅前にございますが、オンライン教室でも「わかり易い囲碁」をテーマに学んでいいただけるようになっています。

また、当サイトにご訪問頂いた方で、他都道府県エリアを含む、「東部市場駅前」以外の地域で、囲碁教室やサロンを探されている方も、お気軽にお問い合わせください。

あなたに合った教室をご紹介できるかもしれません。

髙津昌昭 二段のプロフィール

  • 1986年9月5日生まれ
  • 長野県生まれ
  • 2011年2月入段
  • 2020年7月二段へ昇段
  • 一般財団法人関西棋院 棋士2段 宅地建物取引士
  • 立命館大学囲碁研究部OBOG会幹事
  • 大阪水都ロータリークラブ 会員

1986年9月5日 酒造会社の一家の第二子の長男として生を受ける。

長野県は善光寺のおひざ元の善光寺平で幼少期を過ごす。

私はとにかく奇抜な行動をする子供だったらしく、将来を真剣に心配されたことも。

囲碁の虜になった少年時代

囲碁を始めたのは6歳の頃、実家の敷地内に囲碁道場があり興味を持ちました。

祖母の知己の斎藤忠雄先生に初心者から指導を授かり、そこの囲碁道場に出入りしている大人の方に可愛がられました。

たかつ
この頃の経験は、ご年配の方にも物怖じせず、自分の意見をはっきり伝えることができるなど、自分の人生に大いに役立っていると思います。

齋藤先生と同じく、中山さんというアマ6段の方に、9歳から教わり囲碁にのめりこんできました。ここまでの流れで、順調に囲碁が強くなってきたのかと思われるかもしれませんがそれは違います。

正直始めたころは姉と小学校の同級生たちと一緒に、習い事のような感覚で学んでいましたが、囲碁は見た通り地味で体を動かすわけではありません。

生来、落ち着きの無いわたしとしては、取り立てて面白みも感じたわけでも無く、囲碁を始めてからの2年くらいは囲碁にまったく魅力を感じていませんでした。

斎藤先生や姉、一緒にはじめた友達たちは自分と違う特別な才能の持ち主なのではないかと劣等感すら感じていたこともあります。笑

そんな囲碁に対する気持ちを、180度ガラッと大きく変えた出来事が、少年少女囲碁大会長野予選に出場したことでした。

トーナメント形式のその試合では、初めて味わう試合の緊張感や、独特の雰囲気に思わずのめり込みました。

強い対戦相手に恵まれすぎて(笑)、実力はあまりふるわなかったのですが、長野県の囲碁界では著名な北村俊郎先生に、自分の実力を見てもらったところ、3級くらいの実力とおっしゃって頂き、認定状を授与されました。

それは、大人の人から子供のわたしが認めてもらったような気がし、高揚感を覚えるとともに囲碁にハマった瞬間でした

わたしの人生が決まった瞬間ともいえます
たかつ

それまで漠然とやっていた囲碁でしたが、囲碁の面白さの虜になったのはこのときです。

そのときの気持ちは、今でも色褪せず持ち続けています。

それからというもの、酒造会社の実家である敷地内に囲碁道場があったことで、囲碁を打つ環境が整ってたことも幸いしました。

囲碁にハマってからは時間を忘れ囲碁に興じることができました。

昼夜問わず囲碁に向き合っていたのですが、父親に呆れられ、いい加減にしろと怒られることも度々ありました。

しかし囲碁をやっていたから、という事も関係あるかはわからないのですが、学校の成績も良かったです。笑

たかつ
更に、わたしの囲碁への情熱を加速させることになったのは、 小学校5年生の時です。

前述の少年少女囲碁大会の長野県予選に参加したところ、なんと小学校の級友がその大会に参加していたのです。

大会に参加したことで始めて知った同級生が囲碁をやっている事実。

さらに棋力(囲碁の強さのこと)も段違いに上の実力と評価されている、その同級生と決勝戦で当たりました。

その同級生との試合は、本当に面白く興奮を覚え、アドレナリンが発散しまくった一戦だったと思います。

いつもの実力以上のものが出せたからかもしれません。善戦することができ、実力が上の彼に打ち勝つことができました。

結果として優勝し長野県の代表となることもできました。

ですが、優勝したことよりも実力が評価されている棋力の高い相手に勝ったことのほうが、わたしには嬉しかったように記憶しております。

必ずしも評価が全てでは無い、スポーツの世界さながらの番狂わせがありえる囲碁の世界や深さに気付いた瞬間、囲碁に恋したといっても過言ではありませんでした。

続く全国大会では7位に入賞をしました。(7位決定戦ではこれから長いライバルとも友人ともいえる子とも打ちました)

余談で笑い話なのですが、ベスト8で負けてしまったこの試合。

順位戦の一回戦は時間を勘違いして不戦敗してしまいました。 (その時のお相手は後に有名となる女流プロです。そのころから女難癖があったのかもしれません。)

ですが、大会の結果については、とても満足する内容でした。そのころからプロ棋士を強く意識するようになりました。

ただ住まいは長野県、プロとなるには東京、名古屋、大阪の3都市のいずれかの院生というプロになるための養成所のようなところに入るしかないという状況です。

住み慣れた長野の親元を離れ、単身で囲碁棋士の修行をするためにホームステイを送るのか、12歳のわたしはとても悩みました。
たかつ

ですが、院生へ推薦してくださった吉岡薫先生の温かいお言葉や応援してくれる方の後押しを受けたことで心を決めました。

中学校一年生のときではあったのですが、名古屋にある日本棋院中部総本部の院生となるべく名古屋で修行をすることになりました。

プロの囲碁棋士を目指し本格的に修行を始めることになったのです。

 

プロ棋士になる夢をあきらめ帰郷

中学生活を囲碁に捧げた3年間の院生生活は、楽しくもあり辛くもありました。

これで結果がついて来ていれば、めでたしめでたし、で締めくくれたかもしれません。笑

ですが、結果は真逆のものとなります。

それまで、順風満帆の囲碁との共生といっても過言ではない生活、この先も生活の全てが囲碁と関わることとなると思っていました。

たかつ
トッププロとして活躍するためには、遅くとも中学生の時にプロになる必要があります。

例外があるとはいえほとんどのトッププロは中学生の時にプロになっています。

学校にも通わず囲碁棋士となるためだけに全力をそそいでいたつもりでした。

私の先に行っていた人はプロ棋士となり次は私の番かな、思ったら後から入ってきた子に抜かれてしまい。

院生の普段の順位では、私の方が上であるのに、いざプロ試験となると順位が下位の子に負ける事もありました。

今思えばプロ棋士となる人間となれない人間の違いは覚悟の違いなのかなと思います。

何度も落ちたわたしにはただ覚悟が足りなかったのかもしれません。

才能を認められながらも大事なところで勝てない自分の不甲斐なさに当時は落ち込み精神状態も良くなかったのかもしれません。

結局、中学3年間の院生生活で受けたプロの囲碁棋士になる試験を3度受け3度とも落ちてしまったのです。

1度や2度の失敗は仕方ない。

しかし3度目となると若いわたしの自信と囲碁への想いを砕くには十分なほどの結果でした。

3度目のプロ試験に落ちたとき、二度と囲碁は打つまいと院生を辞め、囲碁もやめ、逃げるように長野の実家に帰郷しました。

しかし実家に帰ったものの、院生時代の約3年間は、 勉強も捨てて囲碁に打ち込んでいたので、中学校1年生レベルの数学の問題や英語も解けず、学校に行く気力も無くなり不登校児となりました。

囲碁棋士になれなかった事でみんなを裏切ってしまったと、自分を追い込んでしまい、どんどん自分が嫌いになりました。
たかつ

学生の本分でもある学業もおろそかにし、嫌なことから逃げるように高校受験もせずに中学校卒業と同時に社会人になるという選択をしました。

ただそんな目標もなく、中学卒業の学歴では、雇っていただけるところは無く、親の世話になり、家業である実家の酒造会社でアルバイトをしました。

下原多津江大杜氏と一緒に酒粕の詰め込みをし、力仕事をし、汗をかいておりました。

一時は、この世界から居なくなりたいとも考えたりもしたのですが、こんな人生も悪くないのかなぁなんて思うようにもなりました。

そんな毎日でしたが、汗をかいて無心に働くことが良かったのかもしれません。次第にどん底まで落ち込んでいたときの気持ちが和らいでいくのが分かりました。

気持ちの余裕ができてくると、「三つ子の魂、百まで」とでも言いましょうか。まるで初恋の人にふと会ってみたいと想うことがあるように、囲碁のことを考えてる自分もいました。笑

当然といえば当然かもしれません。

父親に夜ふかしするなと怒らながら、こっそり夜な夜な囲碁に没頭していた囲碁の思い出しかない実家にいたのですから。

次第に「囲碁を打ちたい」という気持ちがどんどん大きくなっていきました。

帰郷してからは、わたしは「囲碁」という言葉を口に出さないようにと努めていましたが、囲碁のことを考える日々が多くなると友人に相談する機会も増えました。

そんな中、知人の勧めでなんとなく出た長野県の大会で、ブランクがあったのにも関わらず、なんと!優勝することができたのです。

これは過去のトラウマを払拭するのには、十分な結果となりました。

わたしは、諦めていた囲碁にもう一度向き合いたいと考え、活動を再開することにしました。

囲碁を再開すると何故か高校にも行きたくなりました。

たかつ
わたしは意外と単純なので、やる気が出ると何もかも同時にこなしたくなるのは、今も変わっていないかもしれません

当時、学校の先生をしていた叔母や叔父、塾講師の従兄 から勉強を教えてもらい、県立の「須坂東高等学校」になんとか合格しました。

親の安心した顔が今でも記憶に残っています。

そこからは、囲碁にのめり込む学生生活を送りました。

高校に入学後は、長野県のアマチュア大会や高校囲碁選手権に参加をしました。

あまり自分の囲碁が強いという感覚はなかったのですが、

高1~3年に全国高校囲碁選手権 優勝(囲碁の甲子園)

赤旗囲碁選手権全国大会優勝(高2)と結果が伴ってきました。

※高校選手権の三連覇は史上初で現在も破られていない記録の為、高校本因坊 髙津秀昭 との雅号を授かりました。

信濃毎日新聞が主催する「信毎選賞」も受賞することが出来て少し有名人になりました。 (ありがたいことに2チャンネルで髙津昌明ファンクラブというスレッドも立てていただきました。笑)

それだけ実績を残すと、私立大学からも一芸入試のお誘いがありましたが、特待生で立命館大学に入学することにしました。

このころ「プロになりたい」という気持ちが再燃し高校三年生の時に再度プロ試験を「外来」 という制度で受験しました。

さすがにこれはいけるだろと思ったのですが、4度目のプロ試験も夢叶わずでした。

プロの世界は本当に遠いなぁという感覚だけはしっかりと覚えています。

 

立命館大への進学・・そして社会人へ

大学に入ってからも「プロ棋士になりたい」との一心で1回生の時はパチンコ店でアルバイトをしてプロ試験の受験のための資金を貯めました。

半年で70万ほど貯めました。(その代わり大学の単位は・・・笑)
たかつ

再度プロ試験を受けるため、京都から東京まで通うという生活も送りました。

しかし、その努力も報われることなく、5度目のプロ試験も失敗しました。

正直このころになると、「このままアマチュアで囲碁を楽しむのも悪いことではない。」プロになれなくても囲碁をやり続けていこうとも思っていました。

大学の囲碁研究部に良い理解者・仲間がいたのも幸いしたのかもしれません。

中学生時代のように囲碁を辞めようと思うことはなく、ただひたすら囲碁を打ちたいと思うようになり一心不乱に囲碁を打っていました。

囲碁は楽しいから辞めたくない、プロにこだわる必要も無いと、柔軟な思考ができたことは、わたしの心も成長できたのだなと思います。

大学時代も高校時代のように学校対学校の大会にも参加しました。

毎年の年末にある大学囲碁選手権という5人制の団体戦の大会(大学囲碁界の一番の権威のある大会で、大学囲碁界の人間はここで優勝する為に日々切磋琢磨してります)に、

立命館大学囲碁研究部の副将として参加しますが、全勝同士でむかえた最終戦の早稲田戦に負け、結果準優勝となります。

大学二回生の時には個人戦の学生本因坊で優勝することができました。

決勝の相手は小学校の時より宿敵の糸山剛志くん(早稲田大学)と相見えました。

1回生の時は自分より、格上の相手として立ちはだかった糸山くんでした。

ですが、この大会の前の立命館大学の囲碁合宿で、先輩と300局にも及ぶ、模擬戦を打ち続けていたことで、無心で囲碁を楽しめるようになっていました。

所謂ゾーンみたいな状態、木鶏となったような感覚で、単純に良い囲碁を打つ、素直に胸を借りるという気持ちで望みました。

結果、わたしの会心譜ともなりました。

因縁の対決は前評判を無視した勝利を納めることができたのです。

ただ、なぜか勝ち負けの嬉しさは全くありませんでしたが、携帯の電源を入れるとたくさんの人からお祝いのメッセージが入っており「ん?すごいことなのか?」と感じたことが記憶にあります。

年末の集大成の大学選手権は再度決勝で早稲田大学と相まみえました。

三将で打ち自分の結果は幸いしましたが、団体戦としての結果は振るわず2勝3敗で二年連続の準優勝となり、涙してしまいました。

たかつ
囲碁で負けて泣いたのは小学校5年生の時以来です。

3回生の時 立命館大学囲碁研究部はどうやれば日本一になれるのかと考え、自分の力でか日本一になりたいと考え囲碁研究部の部長の職を授かりました。

結果は個人では学生王座戦で優勝でき、勢いそのまま大学囲碁選手権では 主将として参加、全勝同士で迎えた慶応大学戦では主将対決を制し3勝2敗でわたしとしては初の大学日本一となりました。

この時に飲んだお酒の味は、文字通り勝利の美酒です。

今でも忘れることのできないほど格別な美味しさを感じることができました。

心の底から嬉しかったことを記憶しています。

しかし、気が抜けてしまったのか、年度末に行われた世界学生王座戦では6位と、ふるわなかったためしょんぼりしちゃいました。

この年、実は囲碁プロ試験の年齢制限の最後の年でありラストチャンスとして、受験しましたが本戦にも進むことなく6度目のプロ試験も、早期敗退となりました。

この時、プロ棋士は制度的にも棋力的にもきっぱりと諦めました。
たかつ

4回生の時、部長は後輩に譲り、卒業に向けて、溜まりに溜まった単位をかき集めました。

大学選手権は主将として参加。

この年度に入った後輩3人が大活躍をしてくれました。

宿敵である早稲田大学を、5勝0敗で退けるという大学選手権二連覇で、私の大学囲碁生活は有終の美をかざることができました。

5回生となり、就職活動では就職先がすぐに決まり、9月頃には大学卒業の単位も無事に取り終えることができため、半年間の余暇が出来ました。

その時に現在所属している「関西棋院」の研修棋士(説明はまたブログにでも)制度で棋士募集がされていることを知ります。

これは、、、プロになれるチャンスか?

しかし、今まで6度も挑戦して落ちているプロの世界、プロになれたとしても天才の集団の中で勝てるのかいろいろ悩み、葛藤しました。

そんなとき「受けなければいつまでも後悔するぞ。自分の人生は最後に良かったのか悪かったかわかるのだから、受けろ。」と、

アマチュア強豪 京都囲碁道場主宰の今分喜行先生に言っていただき、決意を固め研修棋士に挑戦をしました。

結果は合格。晴れてプロとなることができたのです。

紆余曲折を経てようやく、7度目のプロ試験の挑戦は実り、関西棋院所属のプロ棋士として自分の人生のスタートに立つことができたのできました。

たかつ
念願のプロ棋士となることができたのですが、就職どうしようと次なる悩みがぁ〜

せっかくの就職を辞退するかとも悩みましたが、プロになってすぐに飯が食えるとい保証もありません。

かなり悩んだ結果、自分の決断だけでもどうにかなる問題でもありません。

もう会社の人事部の方に委ねようと、電話をしたところ「じゃあ両方頑張ったら?」と簡単に言ってくれたことにとても感謝をしました。

このことにより、プロ棋士と社会人としての二重生活が始まりました。

そこから今現在に至ります。

囲碁界への挑戦!高津昌昭の目標

現在まで、決して楽な道ではありませんでした。

社会人になってからも、とっっっっっても浮き沈みが激しい人生でした。

ですが、「囲碁」という支えがあったから逸れもせず、外れもせずここまで来れたと思っています。

いままで自分は囲碁と向き合い・寄り添い・時には諦めながらも付き合ってきました。

囲碁の素晴らしさ・厳しさ・暖かさは誰よりも知っている、と恥ずかしげもなく言えます。

コロナの中、囲碁界の情勢も変化しました。

業界では有名な、大きな囲碁サロンが閉店したり、そもそも囲碁をする人が減ったりと、囲碁界には暗いニュースがあふれています。

それは囲碁を理解する人がうまく伝えていないのが原因かなとも感じております。

囲碁と共に生き、楽しさや苦しさををよく知る私の出番かな。

そんな想いを胸にこの会社を設立しました。

これからの囲碁界の未来に希望を持ち微小な存在ながら「未来を信じ未来を生きる」為に囲碁界の発展に寄与していく所存です。

2021年3月20日

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